打越正行「ヤンキーと地元」
「ギャングース」というマンガを読んだあたりから、この辺の「ヤンキー」の世界にずっと興味を持っていて、その学びの一つとして読んだ。
地元のつながり、先輩・後輩関係の中で暮らしているヤンキーたちの様子が描かれていて、面白かった。この記録を「研究」とするアカデミック界隈の姿勢にはいつも辟易するし、それを読んで面白がっている自分も心底嫌になる。
書かれているものは「暮らし」で、それ以上でもそれ以下でもないが、ここで書かれる「暮らし」の中では、警察官がナチュラルに若者たちに暴行を加えている。明らかに自分の「暮らし」とは別世界なように思われるが、同じ世界で、同じ日本である。
大事なことは、この本で描写されるバイオレンスな世界、どこぞの世紀末のような世界が、SDGsやら多様性やらを謳っている現代社会に当たり前のように存在しているということで、これもまた同様に「社会」だということ。
例えば、社会変革を謳い、ダイバーシティを賛美するような人間たちは、彼らヤンキーのことをどこまで視界に入れることができているのだろうか。彼らヤンキーの世界を、それでも「多様性」の名の下に受容することを、ダイバーシティ人間たちは許容できるのだろうか。いささか疑問に思えた。
「弱い人を助けたい」人たちは、彼らをどんな人間だと思うのだろうか。
思うに、社会を変える、という謳い文句を掲げるときに、「社会」の定義が人によってあまりに異なってしまっていることが世界にとって大いなる問題のように思えてならない。
私たちは、自らや弱者や自分の嫌いな政治家たちを「社会」とするのと同じように、彼らヤンキーのことだって当然に「社会」のひとつとして包括しなければならないが、いま世間において「社会」を語るダイバーシティ人間たちの実際はどうだろうか。とてもではないが、そんなようには思えないのである。
沖縄で高校生が失明した事件がタイムリーに起こっていたが、ネットで「社会」を語る人間たちは、なぜか一様に、そうすることでしか「彼の社会」でしか生きられなかったのかもしれない高校生を責め、日常的に若者をぶん殴っているかもしれない警察官に同情を寄せる。彼らが何者かも知らずに。
彼らのような人間もまた、「社会」を語るときに彼らの存在を視界に入れることができない。彼らの場合はそもそも入れるつもりもないのかもしれない。見もしないのに視界に入れた気になっているダイバーシティ人間たちと、果たしてどちらがマシなのか?と一瞬考えたが、まあ、どちらもロクなものでは無い。
この本を下敷きに現代社会を眺めてみると、そこを取り巻く気持ち悪さと、ある種の断絶が、どんどん浮き彫りになっていくように感じられる。
そう、社会は断絶している。断絶と向き合わずして、社会は語れない。
余談だが、amazonレビューでこの本を「裏を取れてないからジャーナリズム未満」みたいに評してる人間がいて、これがトップになっていて79人が役に立ったと付けているのはなかなかだなと思った。