よんだほん

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奥井智之「宗教社会学」

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とても面白かった。

 

宗教は、いつでも社会となる。信徒を作り、集団を作り、秩序を作り、敵を作る。その時、「信徒」と「非信徒」との間には、当然のように壁が生まれる。その壁が、時に制御不能なまでに分厚いものとなり、時に取り返しのつかないような戦いを生むこともある。

 

日々の暮らしのルーティーンだけではなく、「学問」「芸術」「スポーツ」「セクシュアリティ」といったような、ホイジンガの言葉を借りるところの「遊び」にも宗教は潜んでいる。それは例えば、リヴァプールカトリックの赤であり、エヴァートンプロテスタントの青であるように。潜んでいるというよりは、宗教そのものである、と言っても差し支えないのかもしれない。

 

「争いも、貧しさもない社会」を夢想した時、私はどうしてもこの社会の「ままならなさ」にぶつかってしまう。まずもって、国民の大多数が「自らは無宗教である」と言って憚らない日本人は、この「社会≒宗教」というテーゼに無自覚であるように思えてならない。ひょっとしたらその無自覚性が、時に世界を救う鍵になるのかもしれないが、とはいえ日本人の生活にはじつは隅々まで宗教が根付いていることに彼らは気づいていない(ように思えてならない)。

 

社会を語るならば、そこが出発点とならなければならない。そういった意味で、この書籍は「社会≒宗教」を学ぶための入口となるものであるように思う。しかしながら、入口とするにはいささか前提となるべき知識、自覚しておくべき自身の生活が多いように思った。なんとなくだが、これは「日本人を1周した人」でないと楽しく読めないような気はする。つまるところ、奥井さんの語る宗教観について、少なからず同じような疑問を持った人でないと良い体験を得る可能性は低いようにも思った。そして、日本人は普通に暮らしていく中では、自らの暮らす「社会」の中に潜む「宗教」に気付くことは難しい。

 

「争いも、貧しさもない社会」を実現するために何が必要だろうか。少なくとも、「合理」だけでは難しいと私は考える。「合理」とは、あらゆる「非合理」のPDCAの先に生まれるからである。はじめから存在している「合理」などあり得ない。

しかし「非合理」とは際限のない地平である。それを全て読み解こうとするなど不可能なように思えてならない。だから、せめて「無数の非合理」があることを理解しておく。それが肝心であるような気がする。

 

終章の、「理解のコミュニティ」という言葉が、すごくいい言葉だと思った。コミュニティを形作るものは、必ずしも「イエスが3日後に生き返った」とか、「日の出るうちはご飯を食べない」とか、「南無妙法蓮華経」だけではないのだと思う。彼らそれぞれが、その発想をどこから生み出してきたのか、それを自覚すること。そして、同様のプロセスを踏んできた人間たちが無数にいることを理解すること。それこそが、針の穴に糸を通すような、しかしとてつもなく広大な「理解のコミュニティ」ではないだろうか。

 

しかし同時に、その発想の非現実性にも目を向けざるを得ない自分もいる。その時私が考えるのは、西欧諸国が「イエスの復活」によって統合されるように、アラブ諸国が「神への帰依」によって統合されるように、果たして日本国民は何によって統合されるのか?というその一点のみである。きっとその統合が果たされぬまま、日本は今日この日を迎えてしまっている。あらゆる歪みは、その「統合」の無さに象徴されているように思えてならないのである。

 

ひょっとしたら、大江健三郎が「あいまいな日本の私」と謳ったように、日本国民を統合するものはその「曖昧」なのではないか、とも思うが、それではこの先の未来など見通しようもない。そのことを自覚したからこそ、川端康成も、西部邁も、石原慎太郎も、明治維新の英傑たちも、統合することのできる「何か」を欲し、訴え続けたのかもしれないな、と今は思う。

 

しかしながら、統合には程遠いのが現実。少なくとも、私から見てはそう。では、何ならば統合に至るのか?そういったものを探すうえでのヒントも、この書は与えてくれたように思う。思索は続く。

 

追記1:

「ヤンキーと地元」の記事において、「ヤンキーが社会の一員だと感じていない人がいる」という旨の文章を書いたが、「宗教社会学」を読んで思うのは、そもそも「同じ社会」と自覚するための材料が無いのだろうな、と、読み返していて思った。で、「社会の一員として見なければ」みたいなことを当たり前のように書いてしまったが、社会の範囲なんてのは人によってどうとでも定義づけられるので、そこが永遠の難しさになってくる。そうなった時に考えておきたいのは「なぜ統合したいのか?」という根本的な疑問で、客観的に見れば別に統合しなくたって各々平和に過ごせていればそれでいいのだけど、「日本人」という定義を内面化してしまっている自分の思い込みによって「統合しなければならない」と感じてしまっているのかもしれない。それは、なんとなく「国が栄えるためにお前らも一員になるんだよ」という発想で、極めて傲慢なようにも思える。彼らは別に「あっち側の人間」ではないのに、である。結局のところ、これもまた自覚/無自覚の問題にたどり着いてしまうかもしれなくて、「なぜ統合したいのか」という問いに答えられる核心が、まだ自分にはない。いや、それを持つための覚悟がない。そんな気がする。もちろん、「自覚的にやっていれば許される」というものでもなくて、それはどちらかといえば自らの精神衛生を保つために必要なお守りのようなものであるかもしれない、とは思う。そのことは忘れないでおきたい。

 

追記2:

ぼちぼち、柳田國男とか、ウェーバーとか、本を読みたいなーと思っている。しかし、「資本論」も「人間の条件」も難しすぎて途中で放置している自分が、果たしてそれらの本を読むことができるのか...。